大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成11年(う)822号 判決 1999年12月27日

主文

原判決を破棄する。

被告人を禁錮一年に処する。

この裁判の確定した日から二年間右刑の執行を猶予する。

理由

本件控訴の趣意は、横浜地方検察庁横須賀支部検察官金田泰洋作成名義の控訴趣意書及び東京高等検察庁検察官福島清一作成名義の意見書と題する書面に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、主任弁護人工藤昇、弁護人高山俊吉、同佐藤進一、同五味祐子、同高橋正人、同東玲子、同洞沢美佳、同白川千秋連名作成名義の答弁書及び主任弁護人工藤昇作成名義の弁護人意見書と題する書面(なお、同弁護人は、検察官の右意見書に、対面信号が赤色表示後に被告人運転車両が交差点に進入したとあるのは誤りである旨補足した)に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

検察官の所論は、要するに、本件事故は、被告人が対向直進車に対する動静注視義務を怠ったことにより惹起されたものであるのに、被告人に過失があったことを認めるに足る証拠はないとして、無罪の言渡しをした原判決は、独自の理論を前提とした上、証拠の評価を誤り、経験則に反する不合理な推論に基づいて事実を誤認したものであり、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決を破棄した上、さらに適正な裁判を求める、というものである。これに対する弁護人の答弁は、要するに、検察官の所論が理由がないとするものである。以下、検討する。

一  本件公訴事実の要旨

まず、本件公訴事実の要旨は、

「被告人は、平成八年一〇月九日午後九時三〇分ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、神奈川県横須賀市安浦町一丁目八番地先の時差式信号機により交通整理の行われている交差点を浦賀方面から平成町方面に向け右折しようとするに当たり、同信号機の対面信号が黄色表示に変わったのを同交差点入口に設けられた停止線の手前約二六・六メートルの地点で認めたのであるから、右停止位置に停止して右折進行を差し控えるべきはもちろん、同停止位置に停止せず、あえて右折するに当たっては、同交差点入口付近で前方約五四・三メートルの地点に対向して進行してくるA(当時二六年)運転の自動二輪車を認めたのであるから、同車の動静を注視し、その安全を確認して右折進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、黄色信号を認めたのに停止位置を超えて進行するとともに、自車の対面信号が赤色表示に変わったことから右A運転車両の対面信号も赤色表示に変わったものと軽信し、同車は同信号に従い停止するものと即断し、同車の動静を注視せず、その安全を確認しないまま時速約二〇キロメートルで右折進行した過失により、同車に自車との衝突を避けるため急制動のやむなきに至らせて同人を同車もろとも転倒・滑走させた上、自車左側部に衝突させ、よって、同人に肺挫傷等の傷害を負わせ、同月一〇日午前零時二五分ころ、横浜市金沢区泥亀二丁目八番三号金沢病院において、同人を右傷害により死亡させたものである。」というものである。なお、原審検察官は、本件信号が時差式であることの認識の有無は過失の内容ではなく、また、被告人の過失は交通整理の有無とも信号灯火の色とも関係がない旨釈明している。

二  原判決の無罪理由の要旨

原判決は、本件公訴事実に対し、検察官の前記釈明やこれに至る経緯及び検察官の平成一〇年一一月五日付け意見書を勘案すると、検察官の主張する被告人の過失は、「被告人は、交差点の入口付近で、信号が全赤に変わるのに気付くと同時に、前方約五四・三メートルの地点に対向して進行してくるA運転の二輪車を認めたのであるから、同車の動静を注視し、同車が明らかに減速し、あるいは、同車及び運転者の挙動から右折車に進路を譲る旨の意思表示があったと認められる場合等を除いては、同車が直進するため交差点に進入してくることを予見し、その安全を確認して右折進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠った」ことにあると解されるが、これは原則としてはA車が直進するため交差点に進入してくることを予見すべきであるが、例外としてA車が右折車に進路を譲る旨の意思表示があった場合は右折可能とするものであるところ、右の原則と例外は、青信号や交通整理の行われていない交差点には該当するが、本件のような被告人の認識としての全赤信号である場合には、クリアランス時間としての全赤信号は、交差点に滞留している右折車両等が次の現示が始まるまでに交差点を出ることができるようにするためのものであり、右青信号等の場合と同様の注意義務を右折車運転者に課したのでは交差点を出ることが難しくなり、クリアランス時間としての全赤信号を設けた意味がなくなるから、原則と例外を逆にすべきであり、したがって、全赤信号の場合の右折車の運転者の注意義務としては、直進車がその位置、速度等からして交差点(道路交通法二条一項五号の二以上の道路が交わる場合における当該二以上の道路の交わる部分を指す)に進入してくるものと認められる場合ないし認めるべきであった場合等特段の事情があるときを除いては、右折しても過失はないものと解するとした上、本件ではA車が七〇ないし八〇キロメートル毎時の速度で走行して来たと認められるのに対し、被告人が認識しうべきA車の速度は五〇ないし六〇キロメートル毎時であるから、右特段の事情は認められないとして、結局過失があったことを認めるに足る証拠はないとするものである。

三  所論及び原判決の検討

1  証拠により認定する事実

関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(1) 被告人の過失の有無の点はさておいて、本件事故発生の日時、場所、経緯、事故内容等は、本件公訴事実に記載されたとおりである。

(2) 本件交差点は、北方・田浦方面から南方・浦賀方面に通ずる国道一六号線に東方・平成町方面から西方・田戸台方面に通ずる一般市道がほぼ直角に交差し、信号機により交通整理が行われている十字路交差点であるが、本件国道の通行車両に対する信号は、被告人車が進行してきた浦賀方面から田浦方面に向かう対面信号が青色六九秒、黄色三秒、赤色四八秒(うち、黄色に続く三秒は全赤色)であるのに対し、A車が進行してきた田浦方面から浦賀方面に向かう被告人にとって対向車線の対面信号が青色八〇秒、黄色三秒、赤色三七秒(うち、黄色に続く三秒は全赤色)と、青色が一一秒長くなる時差式となっているが、時差式信号機である旨の標示板の設置はなされておらず、被告人も時差式であることを知らなかった。

本件国道は、幅員約一四・七ないし一四・九メートルの片側二車線の幹線道路であり、最高速度は四〇キロメートル毎時(以下、時速は四〇キロの例により表示する)と指定されている。本件交差点付近は、ほぼ直線となっており、夜間でも、街路灯等があって明るく、前方の見通しは良好である。なお、南方、北方の各停止線間の距離は三四メートル前後である。

(3) 被告人は、本件当夜、普通乗用自動車を運転して本件国道の中央線寄りの車線を浦賀方面から田浦方面に向け走行中、本件交差点に差しかかり、右折のため約四〇キロに減速し、本件交差点入口の停止線から約二九・七メートル付近の<1>(以下の<1>等の符号は、被告人立会の実況見分調書二通(甲2、3)の符号と一致する)で右折の合図を出しながら更に減速したが、その停止線手前約二六・六メートル付近の<2>’で対面信号が青色から黄色に変わるのを認めた(被告人は、その直前ころ、対向車線上遠方を、中央線寄り車線を四輪車が、歩道寄り車線を二輪車が車一台分位遅れて、各進行して来るのを、両車のライトでチラッと認めている)。被告人は、その停止線で止まれるとは思ったが、信号待ちをして青色信号に変わっても対向車が来ると直ぐには右折できなくなるので、そのまま右折してしまおうと思い、進行を続け、二〇から三〇キロ位で走行して前輪が右停止線上を越えた辺りの<3>で、対面信号が赤色に変わったのを認め、また、対向車線上に、四輪車と前後して、やや先行するA車のライトを、その供述によれば約五四・三メートル先の<ア>にほんの一瞬だけ見たが、自己の対面信号が赤色になったばかりで、A車が少し交差点から離れていたことから、対向車線の対面信号も赤色になり、A車はこれにしたがい停止するものと即断し、右折する平成町方面に気を取られ、その速度等を含め、A車の動静に注意をすることなく進行した。

(4) 続いて、被告人は、<3>から約五メートル進行した地点<4>で約二〇キロで内小回りに右折を開始し、さらに約二・三メートル進んだ対向車線の延長線上に入った地点<5>で、左斜め前方約一六・三メートル先の対向車線の歩道側車線の延長線上の<イ>にA車を認めて驚き、そのまま約四・五メートル進行した地点<6><×>で、被告人車(左右ワンドア)の左側ドア下部から後部バンパー付近をA車に衝突させ、その直後ブレーキをかけて約五メートル先の<7>で停止した。

(5) 一方、Aは、自動二輪車を運転し、本件国道の歩道寄り車線を田浦方面から浦賀方面に向けて走行し、対面信号の青色信号に従い、本件交差点を直進しようとした際、自車線に右折進入してくる被告人車を認めて驚き、急制動の措置を講じてバランスを崩し、路上に転倒しながら右<×>位置で被告人車に衝突したものである。

2  証拠により認定する事実と証拠説明

(1) 前記(2)ないし(4)に関し、本件交差点の国道上の各停止線間距離が約三四メートル、被告人が<3>で<ア>のA車を認めたという距離が約五四・三メートル、<3>と<4>の距離は約五メートルと認める理由は次のとおりである。

すなわち、原裁判所は、被告人立会いの二通の実況見分調書(甲2、3)のうち、被告人の指示説明中「3の位置で<ア>にいる被害者を発見した」旨の部分を却下し、これを受け提出された甲2、3の実況見分調書においては、当該指示説明記載部分及び甲2添付図面のうち<3>と思われる部分が抹消されている。しかしながら、右却下の理由が、被告人がA車を二度認めており、その旨説明していたのに、実況見分担当者が最初に遠方に認めた地点を記載せず、二度目に認めた地点を「最初に」認めた地点として記載したのが不当であるとして警鐘を鳴らす意味で却下したという些か特異な理由によるものであること、右却下に伴う当該証拠の抹消箇所も右の箇所に限定されていること、被告人の検察官調書及び司法警察員調書中の右実況見分調書を踏まえた<3>、<ア>関係部分の供述も排除されていないことからみて、<ア>地点及び<3>、<ア>を含む距離関係に関する記載部分を含め、抹消されていない部分は全て証拠としたものと解される。そうすると、抹消された部分を除いても、関係証拠を総合すれば、やはり前記のとおり認められる。

なお、仮に<3>の点を除いても、停止線間の距離については、後記被告人の視認距離、A車のスリップ痕や転倒距離、実況見分調書三通の図測等からみて、同様の距離を認めて妨げがない。また、被告人のA車の視認距離については、<ア>のA車の位置から本件衝突後A車が転倒停止していた<エ>の位置の距離が約五三・一メートルであり、かつ、<エ>の位置は被告人車線の停止線の位置より田浦寄りに位置すること、被告人が<ア>点のA車を目撃したという被告人車の前輪が超えた位置は<ア>、<エ>を結ぶ線に対し斜めとなること、被告人が対向車線の停止線から二〇メートル田浦よりにA車を見た旨供述していること(乙3)、更には各実況見分調書の図測を総合すると、その距離はやはり約五四メートルと認められる。更に、<3><4>間の距離も、再度の実況見分(甲3)の経過、被告人車に後続していて本件事故を目撃したB立会いの実況見分調書(甲4)や同人の供述(甲10、11)、被告人車の車長(甲2)、更には各実況見分調書の図測を総合すれば、その距離は約五メートルと認められる。この点、弁護人も図測により同様の推認をしている。従って、<3>の取り扱いの如何は、本件の認定、判断を左右するものではない。

(2) 弁護人は、被告人が<3>で目撃したA車の位置は<ア>ではなく、A車の停止線から三七から五三メートル田浦よりである旨主張し、原審で被告人もこれに沿う公判供述をしているが、これは捜査段階の供述と明らかに異なる上、右公判供述を前提とすると、A車が本件衝突地点に到達するには、その速度が一〇〇キロ以上の高速とならざるをえないが、これは、A車が遠方でほぼ並行していた四輪車とその後も相前後して並走し続けていたこと、Bも、A車の速度を五〇から六〇キロ位とみた旨供述していることからみて、右公判供述は信用できない。ちなみに、弁護人自身もA車の速度は六〇ないし七〇キロと考えている旨主張するところである。

(3) また、A車の速度は、<3>から<×>に至る距離と被告人車の速度、<3>と<ア>の距離を約五四・三メートルとし、スリップ痕やA車の転倒移動距離から算出した警察官の速度等を前提とすると、約七〇ないし八〇キロとなる。本件公訴事実や控訴趣意、更には原判決はこれを前提とするものである。他方、Bは、五〇から六〇キロと見ているが、これを前提とすれば、被告人が目撃したA車の位置は五四メートルよりはもっと本件交差点に近い距離に位置することになり、被告人としてはA車がより本件交差点に進入することを予期し易くなるが、B供述は感想的なもので、実況見分によるA車の目撃状況の裏付けがなく、そのままでは採用しがたい。

なお、被告人は、本件事故後の最初の司法警察員調書(乙1)でA車の速度は七〇ないし八〇キロであったと思う旨の供述をしているが、もともと右折方向に気を取られ、A車もそのライトでほんの一瞬だけ見たに過ぎず、その動静に注意を払っていなかった上、その後速度は分からない旨供述していること(乙3、原審公判供述)やスリップ痕等からの速度算出警察官と取調警察官とが同一人であり、その示唆があってそのような記載になった旨の被告人の原審公判供述もたやすく排斥しがたいことからみて、被告人がA車の速度をはっきりと把握していたとまでは認められない。

3  被告人の過失の有無の検討

原判決は、クリアランス時間の趣旨を強調し、交差点の信号が全赤色を表示している場合は、右折車は、対向直進車との関係では、特段の事情がない限り、右折しても過失はないとの理論を前提としている。弁護人も、停止線の手前で信号機の表示が既に赤色に変わっている場合は対向直進車は交差点への進入が禁止され、停止線手前の停止が義務づけられるから、それを信頼すれば足り、赤色信号を突破することまで考慮して、走行速度に注意を払うべき義務はない旨主張する。

しかしながら、前記証拠により認定した事実によれば、被告人は、停止線から二六メートル以上ある<2>’で対面信号が青色から黄色に変わった時点で停止線において停止できるのに停止せず、更に進行し、停止線にさしかかった<3>で信号が赤色に変わったにかかわらず、全赤色状態の内に本件交差点内を右折しようと引き続き交差点内を進行し、右折しようとしているのである。右のようなことは、同時に対向車線の対面信号も変化しているとの被告人の認識を前提にしても、対向直進車側にとってみれば、被告人が<1>で右折の合図をしていたとしても、既に<2>’で黄色信号に変わっており、停止線までには距離があって止まれる状況にあるのであるから、その右折車が黄色信号に従い停止線で止まると判断したとしても不思議ではないことになるし、<3>で赤色になればなおのこと止まるか、右折するにしても、より慎重に対向車の有無等を確認して右折することを期待することもありうることを示すものである。蓋し、黄色、赤色信号の意味に照らせば(道路交通法施行令二条一項)、対向直進車も、自車の位置や速度から、黄色信号時点では当該停止位置に近接しているため安全に停止することができない場合、赤色信号で交差点内に進入することが予定されているのであって、対向車の中には、被告人の意識と同様の判断から、自車の位置や速度のほか、交差点付近の交通状況等をも判断して、全赤色状態のうちに交差点内を走り抜けようとする車両もないわけではないのである。そして、道路交通法三七条の原則に従い右折車が進行妨害をしないものと期待し、判断することも否定できないところである。すなわち、道路交通法の趣旨に照らせば、青色から黄色信号に続く全赤色信号の場合に右折車に優先通行権が与えられているわけではなく、黄色に続く全赤色信号のクリアランス時間は、直進車であれ、右左折車であれ、交差点内外にある車両等を安全に交差点外に停止ないし排出するためのものであるから、右折するにあたっては、やはり対向直進車や右折方向の交通の安全を確認しなければならないはずである。対向直進車にのみ赤色信号の遵守を求める原判決や弁護人の見解は一面的にすぎるというべきである。したがって、右折車運転者としても、対向直進車等の動静を注視する等、自動車運転者としての基本的注意義務を尽くす必要はやはりあるというべきであり、それを尽くした上で、対向車が赤色信号で停止することを信頼しても無理もない場合等特段の事情がある場合に過失が否定されるべきものである。原判決も、その理論の当否はともかく、そのこと自体まで否定する趣旨とは思われない。

しかるところ、本件では、被告人は、やや無理に右折しようとしたこともあり右折方向の安全に気を取られ、停止線上付近の<3>で対面信号が赤色になったのを目撃し、また、対向車線上約五四・三メートル先の<ア>にA車のライトをほんの一瞬だけ見てA車の接近を認めながら、停止線まで約二〇メートル位の距離があると思ったことから、単に信号が赤だから停止するだろうと即断しただけであって、以後<5>までA車の動静に全く意を払わず、進行して内小回りに右折しているのであって、原判決がるる強調するA車が赤色信号で停止するだろうことを信頼してもやむをえないとするだけの前提条件自体を欠いていることは明らかである。

しかも、<3>から<4>の約五メートル進行して右折を開始するまでには、A車も本件交差点に更に接近しており、その動静に少しく注意していさえすれば、A車が本件交差点に進入することが予測できる状況にあったことは容易に推認できるところであり、<3>の地点でほんの一瞬だけ見れば、後はその動静を注意しなくても良いなどということはできない。

もっとも、A車の速度がその動静を注意していても把握できないような異常な高速であるとか、本件交差点に進入することが予想できない特段の事情がある場合には、被告人の過失が否定されることもありうるが、本件においては、そのような事情も窺われない。すなわち、本件信号機は時差式であるが、その表示は、被告人の認識においては、全赤色状態にあったというのであるが、前記のとおりこの状態においても、対向直進車の通行が予想できない状況にあったわけではない。また、被告人がA車を発見した位置を、その供述するとおりとすると、前記のとおりA車の速度は七〇ないし八〇キロとなるが、右速度は、異常な高速ではなく、予想すべき速度であることは、その走行経験から本件国道の交通の実情を知る被告人自身が本件時間帯の交通状況なら右程度の速度は想定すべきものである旨率直に供述しているところであり、当時本件国道は閑散としており、並走していた四輪車も相前後して相当距離を走行しており、相互の速度にそれほどの差はなかったことが窺われること、BのA車の速度に関する前記供述も、A車が異常な高速ではなかったことの感想として裏付けとなることから、優に認められるところである。

原判決は、被告人の予想速度に関する供述は青色信号の場合を前提としたものであるとの理由で排斥する一方、制限速度を一〇ないし二〇キロ程度超過して走行していることを予測すべきとした最高裁昭和五二年一二月七日第二小法廷決定を援用し、更に、BがA車は五〇ないし六〇キロで走行して来た旨供述していることから、Bの運転経験が一〇年であり、本件事故前後の状況を客観的に冷静な目でみているとして、これをも援用し、結局、被告人が認識しうべきA車の速度は時速五〇ないし六〇キロであり、その急制動時の制動距離が二四・五ないし三二・七メートルであるから、本件交差点に進入してくることの予見可能性がないとしている。

しかしながら、信号の変わり目における速度が青色信号時の速度に連続していることや前記黄色、全赤色状態での交通の実状にも照らせば、被告人の予想速度に関する供述を排斥する理由が必ずしも合理的とはいえないし、右最高裁決定は予想すべき速度を一般的に限定したものではない。更に、A車の速度を七〇ないし八〇キロと認定しながら、これを五〇ないし六〇キロとするB供述が信用できるとして援用すること自体、矛盾している。前記のとおりB供述はA車の速度が予想の範囲内であったことを裏付けるものとして理解できるのである。原判決の右認定は到底採用できるものではない。

そうしてみると、被告人がA車の動静に注意を払いさえすれば、その位置や、速度からみてA車が本件交差点に進入してくることを予見することは十分可能であるし、制動等の避譲行為をとることにより事故を回避することができたことも明らかなのである。本件事故の被告人の過失責任は明らかである。

なお、原判決は、少なくとも時差式信号の標示板の設置があれば本件事故が起きなかった可能性を否定できない旨判断し、弁護人も、本件事故は時差式信号機に原因がある旨主張している。

時差式信号は、交通の実状に基き、その安全と効率の調和を求めて関係車両が道路交通関係法規を遵守すれば事故にならないことを前提として設けられているものと考えられる。ただ、対面信号の表示のみで対向信号などの表示を予想して行動する車両が現に存在するという自動車交通の実態に照らすと、その旨の標示板等の設置のない時差式信号が交通事故を惹起させかねない点で一種危険であることは弁護人指摘の警察庁の通達を待つまでもないところである。そして、本件において、被告人がやや無理な右折をしようとしたのもそのためであると認められる。しかしながら、本件事故において、その責任を専らこの時差式信号のせいにするのはやはりおかしいのであり、本件の事故は標示板の設置云々以前に、被告人の対向直進車に対する動静不注視に起因することは前記説示のとおりである。

原判決には重大な事実の誤認があるから、破棄を免れず、論旨は理由がある。

四  原判決の破棄

そこで、刑訴法三九七条一項、三八二条により、原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により、本件審理の経過にも鑑み、当裁判所において、直ちに、次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

前記公訴事実の記載中、「同交差点入口付近で前方約五四・三メートルの地点に」とあるのを「同停止線を前輪が通過した付近で前方約五四・三メートルの地点に」と、「右A運転車両の対面信号も赤色表示に変わったものと軽信し、」とあるのを「右A運転車両の対面信号も赤色表示に変わっており、」と、各訂正するほかは、同記載のとおりである。

(証拠の標目)

甲、乙は、原審における検察官請求証拠等関係カードの甲、乙番号である。

一  原審第一回、第六回、第一六回公判調書中の被告人の各供述部分

一  被告人の検察官調書(乙3)及び司法警察員調書二通(乙1、2)

一  Bの司法警察員調書二通(甲10、11)

一  C子の司法警察員調書(甲12)

一  司法警察員作成の実況見分調書三通(甲2ないし4。ただし、甲2、甲3につき原裁判所が却下した部分を除く)、写真撮影報告書(甲5、6)、「スリップ痕の長さ及び転倒距離からの推定速度の算出について」と題する書面(甲7)、検視調書(甲8)

一  医師D作成の死体検案報告書(甲9)

なお、原審において、弁護人は、検察官の釈明を踏まえると本件公訴事実の訴因が不特定であるとして公訴棄却を求める旨の主張をしているが、検察官は一貫して訴因の変更はしていないことからみて、その釈明は、右訴因のもと、時差式信号であることの認識の有無が過失を構成するものではなく、被告人のA車に対する動静不注視が過失の中核をなすことを強調する趣旨をいうに過ぎないと解されるのであるから、訴因の特定に欠けるとは認められない。また、本件事故の真犯人は時差式信号の危険を放置してきた神奈川県警であるのに、被告人にのみに罪をなすりつけようとする本件起訴は公訴権の濫用である旨主張するが、本件事故が被告人の過失に基づくことは前記のとおりであるから、公訴権の濫用を認める余地はない。

(法令の適用)

被告人の判示行為は、刑法二一一条前段に該当するところ、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を禁錮一年に処し、情状により同法二五条一項を適用して、この裁判の確定した日から二年間右刑の執行を猶予し、原審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件事故は、被告人が本件交差点を右折するに当たり、やや無理に右折をしようとしてA車の動静を注視しなかったという、自動車運転者としての基本的注意義務を怠ったことに起因するものであって、過失の内容を軽くみることはできない。また、その生じた結果は余りに重大、悲惨であり、刑事責任は重大である。

しかしながら、被告人は、当初から基本的事実関係は認めており、今日まで事故後三年余、起訴後二年半と裁判が長期化しているが、これは原審における法曹三者の対応によるものであり、この間被告人は、その刑責をめぐり不安定な立場を余儀なくされていること、本件では、対面信号が黄色、赤色を表示したことから前記経緯で右折しようとしたものであり、賠償については、被害者の遺族との間で和解が成立していること、その他前科がないことなどの有利な情状も認められるので、これらを総合考慮して、その刑の執行を猶予することとした。

(原審における求刑 禁錮一年二月)

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 荒木友雄 裁判官 田中亮一 裁判官 林 正彦)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例